”シルクロード 流沙に消えた西域三十六か国”(2021年5月 新潮社刊 中村 清次著)は、中国からタリム盆地周縁のオアシス都市を経由しパミールを経て西アジアと結ぶいまなお多くの謎が眠る絹の道シルクロードへの西域三十六か国の旅を案内する。

 シルクロードは東洋と西洋を繋ぐ歴史的な交易路であり、紀元前2世紀から18世紀の間、経済、文化、政治、宗教において互いの社会に影響を及ぼしあった。2014年に、中国・カザフスタン・キルギスタンに残る33か所の関連遺跡や寺院などが、「シルクロード」の名で世界遺産(文化遺産)に登録された。シルクロードの概念は一義的ではなく、広義にはユーラシア大陸を通る東西の交通路の総称であり、具体的には北方の草原地帯のルートである草原の道、中央の乾燥地帯のルートであるオアシスの道、インド南端を通る海の道の3つのルートをいう。狭義には最も古くから利用されたオアシスの道を指してシルクロードという。オアシスの道は中国からローマへは絹、アルタイ山脈から中国へは金が重要な交易品となっていたことから、このルートは「絹の道」あるいは「黄金の道」と呼ばれており、のちに草原の道や海の道が開けるまでは最も合理的な東西の交易路であった。シルクロード貿易は、中国、韓国、日本、 インド亜大陸、イラン、ヨーロッパ、アフリカの角、アラビアにおいて、それぞれの文明において長距離の政治・経済的関係を築くことで、文明発展に重要な役割を果たした。主要交易品は中国から輸出されたシルクであるが、ほかにも宗教、特に仏教、シンクレティズム哲学、科学、紙や火薬のような技術など、多くの商品やアイデアが交換された。シルクロードは経済的貿易に加えて、そのルートに沿った文明間の文化的交易道でもあった。

 中村清次氏は1939年東京都生まれ、1962年に東京大学文学部西洋史学科を卒業し。NHKに入局後、編成、番組制作を経て、1979~1981年の「NHK特集シルクロード」取材班団長を務めた。当時この特集番組は大きな反響を呼び、芸術祭優秀賞、菊池寛賞など数々の賞を受賞した。2010年春まで福山大学客員教授、聖心女子大学非常勤講師を勤め、現在はNHK文化センターにてシルクロード講座の講師を務めている。著者は週1回のラジオ30分番組「カルチャーラジオ」の6か月分のテキスト「シルクロード10の謎」を書いているし、NHK退職後の仕事として、大学講師とカルチヤセンター教室講師とを合わせ、20年間シルクロードを研究している。また、人生百年時代と言われる今、80歳になったら、さらにシルクロードと仏教の研究に没頭してみようと思っていたそうである。気が付いて我に返ったら百歳、出来るならそんな生き方で終わりたいという。シルクロードという名称は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書においてザイデンシュトラーセン(ドイツ語:絹の道)として使用したのが最初である。古来中国で西域と呼ばれていた東トルキスタンを東西に横断する交易路、いわゆるオアシスの道=オアシスロードを経由するルートを指してシルクロードと呼んだ。リヒトホーフェンの弟子で、1900年に楼蘭の遺跡を発見したスウェーデンの地理学者ヘディンが、自らの中央アジア旅行記の書名の一つとして用い、これが1938年に英訳されて広く知られるようになった。シルクロードの中国側起点は長安、欧州側起点はシリアのアンティオキアとする説があるが、中国側は洛陽、欧州側はローマと見る説などもある。日本がシルクロードの東端だったとするような考え方もあるが、特定の国家や組織が設定したわけではないため、そもそもどこが起点などと明確に定められる性質のものではない。中国から北上して、モンゴルやカザフスタンの草原を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海に至る、最も古いとみなされている交易路である。この地に住むスキタイや匈奴、突厥といった多くの遊牧民が、東西の文化交流の役割をも担った。東トルキスタンを横切って東西を結ぶ隊商路はオアシスの道と呼ばれ、このルートをリヒトホーフェンがシルクロードと名づけた。長安を発って、今日の蘭州市のあたりで黄河を渡り、河西回廊を経て敦煌に至る。ここから先の主要なルートは次の3本である。西トルキスタン以西は多数のルートに分岐している。このルート上に住んでいたソグド人が、唐の時代のおよそ7世紀~10世紀頃シルクロード交易を支配していたといわれている。西域南道は、敦煌からホータン、ヤルカンドなどタクラマカン砂漠南縁のオアシスを辿ってパミール高原に達するルートで、漠南路とも呼ばれる。オアシスの道の中では最も古く、紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立していたとされる。このルートは、敦煌を出てからロプノールの北側を通り、楼蘭を経由して砂漠の南縁に下る方法と、当初からロプノールの南側、アルチン山脈の北麓に沿って進む方法とがあった。4世紀頃にロプノールが干上がって楼蘭が衰退すると、水の補給などができなくなり、前者のルートは往来が困難になった。距離的には最短であるにもかかわらず、極めて危険で過酷なルートであるが、7世紀に玄奘三蔵はインドからの帰途このルートを通っており、前者のルートも全く通行できない状態ではなかったものとみられる。13世紀に元の都を訪れたマルコ・ポーロは、カシュガルから後者のルートを辿って敦煌に達したとされている。現在のG315国道は部分的にほぼこの道に沿って建設されており、カシュガルからホータンまでは、2011年に喀和線が開通している。天山南路=西域北道は、敦煌からコルラ、クチャを経て、天山山脈の南麓に沿ってカシュガルからパミール高原に至るルートで、漠北路ともいう。西域南道とほぼ同じ頃までさかのぼり、最も重要な隊商路として使用されていた。このルートは、楼蘭を経由してコルラに出る方法と、敦煌または少し手前の安西からいったん北上し、ハミから西進してトルファンを通り、コルラに出る方法とがあったが、楼蘭が衰退して水が得られなくなると、前者は通行が困難になった。現在のトルファンとカシュガルを結んでいる南疆線は、概ね後者のルートに沿って敷設されており、1971年に工事が始まり、1999年に開通した。G314国道も部分的にほぼこの道に沿っている。天山北路は敦煌または少し手前の安西から北上し、ハミまたはトルファンで天山南路と分かれてウルムチを通り、天山山脈の北麓沿いにイリ川流域を経てサマルカンドに至るルートである。紀元後に開かれたといわれ、砂漠を行くふたつのルートに比べれば、水や食料の調達が容易であり、平均標高5000mとされるパミール高原を越える必要もない。現在のG312国道や蘭新線、北疆線は、部分的にほぼこの道に沿っている。広大な中国の西端に、かつての「西域」、現在の新疆ウイグル自治区があり、その自治区の東端に、シルクロード史上、極めて重要な湖、ロプノール(モンゴル語:ロプの湖)がある。19世紀の半ば頃から、ロシア、スウェーデン、イギリス、フランス、日本と、それぞれ目的は様々であったが、各国が中央アジアヘ探検隊を送り出し、現地の情報を集め貴重な文化財を獲得していった。そうした中、20世紀の初め、スウェーデンの探検家スウェン・ヘディンが、ロプノールは1600年を周期に、砂漠の中を北から南へ、南から北へと移動するさまよえる湖だと発表した。その上で、今、湖に水はないが、もうすぐ水は戻ってくると予言した。そして1934年、ヘディンは、水の戻った湖にカヌーで漕ぎ出し、予言は的中したと発表した。この摩詞不思議なロプノール=さまよえる湖説は、今に至るまで、世界中のシルクロード・フアンの心を捉えて離さない物語の一つである。そのロプノールについて、著者たちのシルクロード取材班は、取材の過程で、ある事実を知り驚愕したという。当時、日本にある殆どの世界地図に記されたロプノールは、いずれも、実線で明確に形取られ、その湖面はあたかも満々と水を湛えているかのように、青々と彩られていた。恐らく、スウェン・ヘディンの湖に水は戻ったという発言以来、地図製作者たちは、あと数百年は、湖水がここに止まると確信したのであろう。しかし、ヘディンの発表から45年後の1979年、取材を重ねていく中で動かしがたい確かな証拠により、湖面の何処にも水がないという事実を突き付けられた。当時、アメリカ航空宇宙局の地球観測衛星ランドサットに衛星写真を依頼したが、その結果、間違いなく当時のロプノールにはどこにも水がないことがわかったのである。実は1935年から中国政府は、文物の海外流出を防ぐため、という理由で、外国人への門戸を閉じてしまった。これによって、19世紀半ばから始まった、中央アジア探検家時代は幕を閉じて、以来、年を重ねるごとに、中国内シルクロードは、地上最後の秘境としての度合いを深めていった。「NHK特集 シルクロード」の番組制作のため、著者たちは1979年から取材を始めた。番組は日中共同制作で、NHKとCCTVとの共同取材班であった。訪れた地では、日本チームは何処へ行っても44年振り、或いは45年振りの外国人と呼ばれたという。中国内シルクロードは、かつて「西域36か国」と呼ばれたエリアであるが、それまで40数年にわたり、外国人への門戸が閉ざされていた地であり、まさに撮影するも特ダネであった。忘れてはならないのは、番組放送を契機に中国で始まった、シルクロード分野における研究の飛躍的な発展である。中国歴史書を中心とした従来の文献学に、考古学、言語学、人類学、仏教美術史、宗教学、更には考古学調査に必要な自然科学の分野も加わり、各学術分野の総合研究が始まった。しかし、いくら研究が進んできたといっても、シルクロードの範囲は広大である。本書で取り上げるのは、東は黄河に臨む蘭州から、巨大な砂漠・タクラマカンを挟んで、西は世界の屋根といわれるパミール高原まで、の西域36か国とその周辺に限りたいという。シルクロードを通した、日本と中国・西域との関わりが、思いのほか深いことを示すものが幾つもある。まず、4世紀半ばにオアシス国家・亀茲王国に生まれた鳩摩羅什は、長安で、「金剛般若経」「法華経」「阿弥陀経」「坐禅三昧経」など約300巻に及ぶ経典を漢訳した。日本人は、鳩摩羅什が訳したその経典を今も読んでおり、古代シルクロードは奈良・飛鳥の法隆寺金堂の壁画や仏像などの源流を思わせる大地である。東大寺大仏へとつながる大仏の来た道でもあり、仏教東伝の道を象徴するかのような、我が国との深い関わりを示している。竪笙換(ハープ)、五弦琵琶、四弦琵琶、排蕭、事築、笙、腰鼓、鶏鼓などの楽器は、いずれもシルクロードの全盛期に唐の玄宗皇帝が最も愛した亀茲楽の主役だった楽器である。わが国でも正倉院に宝物として収蔵されていたり、今なお雅楽としてお馴染みの、優雅な音色を奏でる楽器として実際に使用されている。他にも正倉院の宝物には、シルクロード由来の物が幾つもあり、日本がシルクロードの東端とも言われる由縁となっている。現地を取材した際にも感じたことであるが、シルクロードを旅するツアーの講師として現地をご一緒した際に多くの方々が口にしたのが、不思議なことに懐かしいという言葉であったという。それは日本文化の源流が飛鳥・天平文化にあり、そのさらに源流が中国にあり、特に西域だったからではないか。トインビーが、そこで生活したいと憧れるまでに、西域の国々が繁栄したのはなぜか。そしてそれにも拘わらず、なぜ、そうした幾多の王国が、流沙の中に埋もれていってしまったのか。これから皆さんと一緒に、シルクロードを旅するように、その遥かなる歴史の謎を一つ一つ解きあかしていきたいという。/

 序章 遥かなるシルクロード/第一章 「楼蘭の美女」は、どこから来たのか/第二章 「さまよえる湖」が、もうさまよわない理由/第三章 「タクラマカン」は謎の巨大王国なのか?/第四章 絹と玉の都、ホータン王国の幻の城/第五章 建国の夢が滅びの始まり-ソグド人の悲劇/第六章 奪われた王女-亀茲王、烏孫王女を帰さずに妻とする/第七章 玉を運んで四千キロ-謎の民族・月氏の正体/第八章 楼蘭・?善王国の消えた財宝-天下一の大金持ち王の末路/第九章 仮面をつけた巨人のミイラの謎/第十章 幻の王族画家が描いた「西域のモナ・リザ」/終章 シルクロードはなぜ閉じられたのか-捨てられた敦煌/おわりに

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